鬼滅の刃について神社の神主が語る

人気漫画「鬼滅の刃」は1大ブームを巻き起こし、多くの人たちを魅了しました。

作品独自の魅力的なキャラクターや面白いストーリーがその要因である事は間違いありません。

しかし、それだけではなく、太古の昔から日本人が‘‘鬼退治”の物語に強く惹かれてきた背景がこの大ヒットの根底にあると思います。

『古事記』、『日本書紀』を始め『今昔物語』、『太平記』、『源氏物語』など、日本の古典には“鬼退治’’の物語が数多く描かれてきました。

「鬼滅の刃」の最大の特徴は、主人公やその仲間のキャラクターだけでなく、敵である鬼の過去までも丁寧に描かれている点です。

「鬼滅の刃」における鬼は、生まれながらの怪物ではありません。

貧困、病苦、嫉妬、恨みなど、不幸な過去を持つ魂が、極めてネガティブな状態に陥ってしまったために、人間に生まれ変わることができなかった者たちが、鬼となり、人間を襲うようになっ
たのです。

彼らは現世だけではなく過去生でも大変不幸な境遇をお持ちだったようですね。

読者や視聴者は漫画の面白いキャラクターやストーリーには引き込まれていきますが、ここではなぜ鬼になってしまったのか?彼らが鬼になる道を進むことになったその根本的な原因について
少し深掘りして見たいと思います。

因果応報という言葉があります。人は良い行いをすれば良い報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるという、この大宇宙の法則です。いま不幸な境遇にいる原因は、実は自らの過去の行
いの結果なのかもしれません。

鬼たちは、彼らの不幸な境遇が始まる前に、誰か他の人に対して同じようなひどい境遇に陥れてしまった可能性があります。それがブーメランのように今の我が身に返ってきているのかもしれません。

もしそうだとしたら、その人たちはその報いを受け入れなければならないでしょう。

因果応報は、過去に積んだカルマが解消されると考えると、ありがたいことなのかもしれません。

お釈迦様の弟子のモーカラナ(目連尊者)は、その人生の最後はたいへん痛ましいものでした。

他教のグループの人たちに撲殺されてしまったのです。しかしこのことで、彼が積んだ大きなカルマを解消することができたのだと考えることもできます。

お釈迦様は憂い(愁い)、悲しみ、苦しみ、悩みは執着によるものであるとお教えになっているようです。

執着とは、自分の間違った考えを始めとして思い込みに陥り、見聞きしたものから感情が発生して、心の中に渇望が湧き起こり、渇望の対象を手に入れようと奔走するようになります。しまい
には執着すること自体が自分の人生そのものになってしまうのです。

自分自身が、執着によって本能的に自分勝手に行動してカルマだらけの人生を作ってしまう。次に生まれ変わっても、また同じことを繰り返してしまう。

かわいそうなのは、鬼だけではなくて、自分自身も同じカルマと特別の法則の中で生きているのです。私たちも今までに積んだカルマによっては、死んだ後に鬼になってしまうこともあるので
す。

善因善果悪因悪果、つまり良い行いからは良い結果が起こり、逆に悪い行いからは悪い結果が起こるものです。悪い行いは慎み、良いことのみを行い、日々徳積することを心がけることが大切
なのです。

武運濃神社の秋祭りで奉納する獅子舞は、幣や鈴を持った獅子が悪いものや、邪気を払います。

噛み付きそうな強面(こわもて)の獅子がやってくると鬼も逃げていくかもしれませんね。

投稿日:2024年09月27日(金)