仏教伝来で神社はパワーアップ!

仏教が日本に伝来したのは、6世紀中頃ですが、当時の日本人には古来より伝わる神道の概念しかなかったので、理解するには難しかっただろうと思います。はじめは、公家や皇室などの超セレブにお話をしに伺ったのではないでしょうか。大陸伝来の文化は、中国語(漢字)の理解が前提ですから。新しい概念は身近なことを例にあげて、何度も説明したでしょうね。

この教えを高く素早く評価し、聖徳太子は594年仏教興隆の詔をお出しになりました。
そして、宇佐八幡神(誉田別尊:当神社ご祭神)は743年に奈良東大寺大仏造営を助成せよと宣託なされました。
794年平安京に遷都し、この頃から密教が流行し始めました。二大密教のうち天台宗は山王一実神道、真言宗は両部神道として更に日本人に分かりやすく消化されて行きました。(日光東照宮は、山王一実神道の僧天海が家康を祀りました。武運濃神社は鳥居に両部様式を取り入れました。)

神仏習合は更に進み、神宮寺・神護寺が各地に造られました。仏(本地)が衆生を救うために仮に神となって姿を現した(垂迹)という分かりやすい考え方です。神社では、ご神前でお経を読む別当という役目の方もお勤めしていました。

また、天台真言の山岳修行とわが国固有の山岳信仰が融合して修験道となりました。(長野市戸隠山・飯山市小菅では、今でもその名残りがありますし、風間家でもその昔、修行をしていたと先代の父より聴いております。)

平安中期になるとやはり中国より伝来した浄土教(仏様を信じれば、誰でも救われる)が流行し始めました。ひらがなの普及も拍車をかけたのではないでしょうか。しかし、同時に「もうこの世は終わりだ!」という末法思想も広がりました。

平安末期から鎌倉初期にかけて公家の没落と武士の興隆のため、仏教の大衆化が始まりました。武士商人農民に向けて鎌倉新仏教(浄土宗、浄土真宗、時宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗)がスタートしました。

しかし、1174年元寇が始まり、嵐によって元が退散し、日本が救われると、「日本は神国である」と考える人逹が出てきました。このようなことを背景にして本地垂迹説の逆の神本仏迹説がでて、伊勢神道(度会神道)が形成されました。江戸時代になると、神道を中心に儒学・仏教を統合しようとする唯一神道(吉田神道)が完成しました。

当神社は江戸時代に京都吉田家から宗源神宜を授与され、八幡宮から武運濃神社と改称されました。
江戸時代は文化の花盛りで、儒学を取り入れた唯一神道をはじめ王道神道・吉川神道・垂加神道・土御門神道など着眼点が異なる諸説が出ました。

また、復古神道から国学が進展して攘夷思想に強い影響を与えました。
江戸時代末期には、神道禊教・黒住教・天理教・金光教など神道十三派(教派神道)がたくさん開かれました。しかし、仏教的な神道は雲傳神道など少数に留まりました。

このように、仏教が伝来して以来、神社は仏教を長い時間をかけて取り入れ、模索しながらパワーアップしてきました。しかし、残念ながら、明治以降は国家神道として繁栄したものの、大切なものを多く失ってしまいました。

この点についての続きは次回、お楽しみに!

 

 

 

 

投稿日:2015年05月08日(金)